ポーランド語歴史文法: 単語ojciecについて

今回はポーランド語の単語をテーマとして取り上げ、その成り立ちを歴史文法の観点から説明する記事です。今後このタイプの記事を複数書いていくことになると思います。

今回はojciec(父)という単語です。

ロシア語を知っている人ならこれがロシア語でотецなのを知っていると思います。これをポーランド語に規則的に直すとociecとなるはずですが、現代ポーランド語ではojciecです。それがなぜなのかは、この記事を読むとわかります。

ojciecという単語を取り上げた理由

記事にする単語は説明しがいのあるものでなければいけませんが、このojciecという単語にも選んだ理由があります。この単語にはポーランド語の歴史の中で面白い現象が起こっているからです。

スラヴ祖語再構形

この単語はスラヴ祖語(スラヴ語派に属する言語群の先祖にあたる仮説上の言語)では

*otьkъ

という形をとっていたと考えられます。

ь, ъという文字は見慣れないかもしれませんが、これらはスラヴ祖語時代に存在した非常に短い母音イェルです。イェルには前舌・後舌のバリアントがあり、ьが前舌、ъが後舌です。

また、こうしてスラヴ祖語など仮説上の言語における形を仮定する再構という作業は簡単ではありません。

ポーランド語の歴史上の全ての音韻変化現象を頭に入れた上で時々他の言語と比較しながら再構形を導き出すしかないので、専門的な勉強なしでは難しいです。

しかし、単語一つに絞って紹介する記事ではいつも再構形を提示し、そのあと現在の形(今回はojciec)に至るまで一段階ずつ音韻変化を説明していきます。

音韻変化

1. *otьkъ > *otьc’ь

青で示したのが変化した音、そして赤で示したのが変化の引き金となった音です。

スラヴ祖語時代後期に起こった変化で、これを第三次口蓋化と呼びます。スラヴ祖語には時系列的に第一次口蓋化・第二次口蓋化・第三次口蓋化と名付けられた三つの口蓋化現象があり、これらに関係するのは*k, *g, *xという三つの子音です。

ここでは*kの前にある*ьが*kを口蓋化したことによって新しい子音*c’が生まれました。

色を付けていませんが、同時に最後のイェルも変化しました。*c’の後に後舌母音が存在することはできなかったので、*kの後ろにあった後舌のイェル(*ъ)が自動的に前舌のイェル(*ь)に変化しました。

2. *otьc’ь > ot‘ec’

11世紀にはイェルが母音化または消滅しました。この単語に含まれていた二つのイェルのうち二つ目は、単語の最後にあったので消滅してしまいました。

一つ目は消滅するイェルの前の音節を作っていたため母音化し、tをわずかに軟音化しながらeに姿を変えました。

なおあとで重要になるので単数生格形も示しておきます。

*otьc’a > ot’c’a > oc’c’a

ここではイェルがtを軟音化して消滅しました。この時点でot’c’aという形が出現しますが、t’は調音の似たc’の直前にあるためc’に同化しoc’c’aとなりました。

3. ot’ec’ > ojt’ec’

この変化は非常に特殊で、ojciecという単語を取り上げた理由でもあります。

なぜここにjが出てきたのかが問題になりますが、単数主格形だけでなく単数生格形も考慮することで答えが見えてきます。

単数主格: ot’ec’
単数生格: oc’c’a

単数生格など他の格における形を発音するときにc’c’の軟音部分を早く発音しすぎるとojccaのような発音になります。現代ポーランド語でsześćset(600)という単語をszejsetと発音するのと似たようなものです。

ここで単数生格形にjが不本意に出現し、後に単数主格形でも発音されるようになってojt’ec’という形が出来上がりました。

現代の形までの過程

この特殊な音韻変化の後、さらにポーランド語特有の口蓋化によってt’ > ć、その後非口蓋化によってc’ > cという変化がおこり、現在の単数主格形ojćec(ポーランド語正書法に従えばojciec)が生まれました。

他の格ではc’が二重になっている部分(c’c’)が一つのcに単純化し、現在の語幹ojc-となりました。単数生格形と同じ過程です。

最後に

このようにたった一つの単語なのにその歴史は深いという例はたくさんあります。この楽しさを伝えるために、今回のような記事を書いていこうと思います。

コメントを残す