スラヴ歴史文法の話題を取り上げてみます。今回は私の名前にも使われているイェルについてです。スラヴ諸語を勉強している方にとっては面白い話題だと思います。
イェルとは
この名前を聞いて何のことかわかる日本人は相当少ないはずです。しかしスラヴ諸語のどれかを学んでいてその言語の歴史まで勉強した方ならピンとくる名前かもしれません。
イェルとは、スラヴ諸語の古い母音の名前です。
イェルを表す文字
キリル文字でイェルに使われていた文字は、現代ロシア語の硬音記号・軟音記号と同じです。
キリル文字より先に作られスラヴ最古の文語である古代教会スラヴ語の時代に主に活躍したグラゴル文字では、他の文字と同様に不思議な文字が使われています。
グラゴル文字は覚えてもあまり意味がないので無視しても大丈夫です。グラゴル文字を覚えなくてもいい理由は、グラゴル文字で書かれたテキストが全てスラヴ諸語研究の先駆者たちによってキリル文字に翻字されているからです。
イェルの特徴
前舌・後舌の2種類が存在する
スラヴ祖語には現在のスラヴ諸語より母音が多く存在しました。写真はそれを図にまとめたものです。赤い丸で囲まれたのがイェル。左が前舌・右が後舌です。
非常に短い母音である
先ほどの図ではイェル以外の全ての母音に上に直線が乗ったものと弧が乗ったものの二つのバリエーションがありました。これは母音の長短を表しています。
直線が長母音、弧が短母音を表し、短母音は長母音の半分の長さで発音されていました。イェルは短母音のさらに半分の長さしか持っておらず、母音の中でも非常に弱い存在でした。
イェルの運命
イェルは弱い存在であったためにそのままの姿で生き延びることはできませんでした。そのためイェルは消滅または母音化します。この現象が起こった時期は11世紀頃です。
イェルが消滅するか母音化するかはイェルが弱いか強いかによって決まりました。
弱いイェルは
・語末のイェル
・イェル以外の母音による音節の直前にある音節のイェル
・強いイェルによる音節の直前にある音節のイェル
強いイェルは
・弱いイェルによる音節の直前にある音節のイェル
この基準でイェルの強さが決まり、弱いイェルは消滅し、強いイェルは母音化しました。
スラヴ諸語のどれかを勉強していると、語形変化に従って現れたり消えたりする母音(出没母音)に出くわします。ポーランド語ならe、ロシア語ならоまたはеがそれにあたります。
これらの母音はもともとイェルであり、スラヴ祖語時代に語形変化によって強いイェルになったり弱いイェルになったりしていたために現在まで現れたり消えたりする母音としてその跡を残しているのです。
この記事の目的はイェルが何者なのか説明することなので、ここで終わりにします。