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ACミランの新エースPiątekの読み方が「ピオンテク」というのは間違いです

今回もスポーツに絡めて書いてみます。イタリアの有名なサッカーチームACミランに移籍してきて大活躍しているポーランド人選手Krzysztof Piątekの読み方について、日本で議論があるようです。

私はポーランド語に関するツイートを検索しながらこれを見守っていたのですが、「ピアテクとピョンテクは間違いで、ピオンテクが正しい読み方だ」という説が最終的に拡散されたようです。

ただここで「ちょっと待った」です。私はポーランド語がわかるのですが、「ピオンテク」はありえません。カタカナ表記するなら「ピョンテク」しかありえません。それなのに「ピョンテクではなくピオンテク」という誤った情報が広まってしまって非常に危険だと思ったので、この記事でしっかりこの名字の読み方を解説することにしました。

ピオンテク説を唱える人々

それでは、そもそも誰が「ピオンテク」という読み方を支持しているのでしょうか。

実況者

まず、サッカーの実況者の北川義隆さんという方が、Piątekの読み方を調べてきて「ピオンテク」だという結論に至り、実況をするときに広めているそうです。これはまずいですね。

ただし、この人はポーランド語がわからないと思うので、仕入れた情報が正しいか間違っているか自分で判断することはできません。ポーランド語がわからないというのは悪いことではないので、ある程度仕方ないと思います。

ピオンテク説を唱える記事

さらに、こんな記事を見つけました。これを読んだのが、この記事を書こうと思った直接的な理由です。

https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=53363

ここから引用していきます。

当初の誤読

18年夏にジェノアに加入した当初、ほとんど無名だった関係もありイタリアでは、いわゆるローマ字読みで「ピアテク」と呼ばれていた。

「ピアテク」は3つの説のうち最も正解から遠い読み方ですが、これは仕方ないですね。イタリア語にはąの文字がないので、素直に読むと「ピアテク」になってしまいます。

ラテン文字表記の国同士であれば、外国人選手の名前を自国流に発音するというのは普通のことです。スポーツ選手の数は多いので、いちいち調べてもいられませんからね。

なお、日本では最初「ピョンテク」という表記が主流だったようです。これが変わってきたのは最近のことらしいですね。

ポーランド人による指摘

かつてユーベやローマで活躍したズビグニェフ・ボニエク(現ポーランド・サッカー協会会長)がこう指摘する。

「ピアテクではない。ピオンテクだよ」

ここでポーランド人が出てきました。ズビグニェフ・ボニエク(Zbigniew Boniek)というポーランド語母語話者の発言です。本当は彼の名字も「ボニェク」でなければいけないのですが…

これは一見説得力のある論拠ですが、この人は日本語で発言したわけではありません。彼が日本語ではない何か他の言語で話していたのを日本人が文字起こししたものが、この「ピオンテク」というわけです。

つまり、この人が直接「ピオンテク」というカタカナ表記にGoサインを出したわけではないことがポイントです。「ピアテクではない」という部分は正しいです。

ポーランド語の発音

ポーランド語の特殊文字である「ą」は、単独だと「オン」と読む。ボニエクや本人はもちろん、ポーランド人の発音を聞くと、たしかに誰もが「ピオンテク」と言っている。

ąが単独では「オン」になる、これは正しいです。あくまで「単独では」という条件の下でですが。鼻母音ではありますが、カタカナに直すなら「オン」しかありません。

ポーランド人の発音を聞くと「ピオンテク」だ、ということについては、これを書いた人の耳を疑うしかありません。後で説明しますが、Piątekのiは母音ではありません。「ピオンテク」というカタカナ表記は、母音の「イ」がないと成り立ちませんよね。

ポーランドに詳しいサッカーライター

ただ、ポーランドに詳しいサッカーライターによれば、「なぜピョンテクになったんでしょうか……。完全に間違っていますね」とのことだった。

さて、このサッカーライターの方はポーランド語がわかるのでしょうか。ポーランドにいる日本人の大部分はポーランド語が話せないということを考えると、定かではありません。ポーランドに詳しいからといってポーランド語に詳しいとは限りません。

このように、「ピオンテク」説を支持する意見は一見強力です。実況者が「ピョンテク」読みを丁寧に訂正する、ポーランド人レジェンドが「ピオンテク」だと言う、ポーランドに詳しいサッカーライターも「ピョンテク」を完全に間違いだと言う…

ポーランド語がわからないファンなら普通信じますよね。

なぜ「ピョンテク」が正しいのか

ここから固まりつつある「ピオンテク」説を覆していきます。

辞書におけるカタカナ表記

まずは、日本で出版されているポーランド語教材の中でも最も重要なもののひとつである「白水社 ポーランド語辞典」(木村彰一編, 1981)を見てみましょう。

この辞書は独自のカタカナ転写法を導入し、それに従って見出し語すべてにフリガナをふっています。インターネット上でポーランド語に関する情報を発信している人の多くは自己流の転写法を使っていますが、私の意見ではこの辞書の転写法が最も合理的です。

piątekはポーランド語で「金曜日」を意味する一般名詞でもあるので、ここに読み方が載っています。ここでは「ピョンテク」と書かれています。

音声学的解説

さらに、ポーランドの大学のポーランド語学科に留学したこともありポーランド語を言語学的な視点で学んでいる私が、ポーランド語音声学の知識を使ってpiątekという単語の発音の解説をしましょう。

piątekは、[pʲɔntɛk]と発音します。不思議なアルファベットで書いてしまいましたが、これは国際音声記号といいます。世界中の言語にある音を同じ文字体系で表すための記号です。これが読める方ならすでにPiątek問題は解決したと思いますが、この記事はこれが読めない読者も想定して書いています。

まず、t以降は「テク」で問題ないので無視して大丈夫です。これから”pią” [pʲɔn]の部分を解説します。

ɔという記号は母音の「オ」です。先ほどąは鼻母音であると書きましたが、鼻母音ąは後に来る音によって発音を変えます。これは人間の口の中で自然にそうなるからで、覚えなければいけない規則ではありません。piątekの場合は後にtがきているので、ą = [ɔn]になります。

pは日本語で「パ・プ・ペ・ポ」と言ったときに共通する子音の部分に相当します。pの右上に小さなjがついて[pʲ]となっていますが、これはポーランド語に特徴的な発音で「pの口蓋化子音」といいます。

子音が口蓋化すると、子音に「イ」の響きが加わります。例を出しましょう。[pa]は日本語の「パ」と同じですが、[pʲa]は日本語の「ピャ」と同じです。どちらもポーランド語に登場する音です。実はこの点でポーランド語と日本語の発音は似ています。

大事なのは「イ」の響きが加わるものの「イ」という母音はここにはない、ということです。この響きはあくまでpという子音の一部なのです。

ポーランド語表記にはpiątekのようにiが書かれていますが、他に[pʲ]という口蓋化子音を書き表しようがないためiという文字を借りてこれを表しているのです。ポーランド語表記にiが出てきた場合、母音の「イ」を表すこともあれば口蓋化を示す記号になっていることもあります。piątekのiは口蓋化を示す記号です。母音ではありません。

[pʲa]が「ピャ」なら、[pʲɔ]は「ピョ」ですよね。偶然にもこれは本当に日本語の「ピョ」に似た音です。母音の「イ」はここに存在しないということも踏まえると、どう頑張っても「ピオ」とは書けません。

ここまで説明してきた前半の[pʲɔn](ピョン)と後半の[tɛk](テク)を合わせるとピョンテクですね。したがって、「ピョンテク」という表記が完成します。

下の名前のKrzysztofは「クシシュトフ」と読みます。そのため、「クシシュトフ・ピョンテク」と書くのが最善策です。

ポーランド人はサッカーが大好きなので、自分の国からスター選手が誕生したことを喜んでいることでしょう。しかし、ポーランド人の誇りでもあるポーランド語を誤読されてしまったら喜びも半減です。「ピョンテク」読みが再度浸透すれば良いなと思います。